「写 真」は一期一会の宝もの 48



白 拍 子 今 様 の 舞

 4年間連載させて頂いた本欄も今回で終了です。毎号最終ページを見るのが楽しみだとの声を何度か聞かせて頂き、お世辞だと分かっていても嬉しく思いました。長い間のお付き合いありがとうございました。

 最終回は是非伏見にゆかりのある写真にしようと思い、私が校医をしている伏見区東稜高校の生徒さんが、随心院の観梅祭で美しい白拍子の装束で舞われた見事な今様の舞姿を選びました。平安末期から鎌倉前期にかけて貴族・武士・宮廷の間で大流行した格調高い白拍子の演技を彷彿とさせる姿です。

 実はこの写真は以前保事協ニュースの表紙や写真専門雑誌にも掲載されたものですが、今回は、これに白拍子についての逸話を少々付け加えさせて頂きました。

 平清盛の全盛期であった12世紀、清盛の寵愛を受けた白拍子の妓王と妓女、彼女たちの願いにより当時水不足に苦しんでいた妓王の故郷、野洲に灌漑用の水路(現・妓王井川)を5年がかりで掘らせたことからも清盛の寵愛ぶりが想像できます。しかし、直後に清盛の屋敷を訪れた16歳の白拍子・仏御前が屋敷から追い払われる寸前に妓王のとりなしで、清盛の前で歌舞を披露することができました。その若さと美貌と舞姿に、寵愛が仏御前に移ってしまい、哀れにも、妓王は追放されたばかりか、後日、仏御前を慰めるために歌舞を披露することを清盛から強要されたのです。

 あまりの屈辱に、生きてまた憂き目を見るよりもと、母・刀自、妹・妓女と共に剃髪して嵯峨野の山里の草庵で仏門に入りました。そして同年、仏御前までもが妓王の運命を己自身に重ね、世の無常を思い清盛の下から抜け出し、仏門に入りました。時に妓王21歳、妓女19歳、母・刀自45歳、仏御前17歳だったと言われます。

「萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋に逢はで果つべき」

 もう一人有名な白拍子に源義経が愛した静御前があります。彼女については西川矢右衛門氏のサイト、http://www.geocities.co.jp/PowderRoom/9182/newpage6.htm に読みやすく書かれていますので興味のある方はご覧になって下さい。

「しずやしず しずのをだまき 繰り返し むかしを今に なすよしもがな」

                                                  栗原 眞純

随筆集目次へ    

inserted by FC2 system