フォトエッセイ 残像の記録 21



あ れ か ら 68 年

 1945年8月、初めての原爆が広島に投下されてから68年が過ぎました。当時の広島市人口、約40万人の内1945年中に約14万人、その後の5年間を含めると死者の数は20万人以上になるそうです。

 当時の原爆は15キロトンでしたが現在各国が所有する原爆はメガトン級でしかもそれがWikiによると2009年時点で2万発以上もあるそうです。核戦争が地球を滅ぼすと言われる所以です。

 多くの犠牲者の冥福を祈りながら、世界遺産となった夜の原爆ドームをしばし眺めていました。世界遺産となったきっかけは1歳で被爆し、15歳で白血病で亡くなった楮山ヒロ子さんの残した「あの痛々しい産業奨励館(原爆ドーム)だけがいつまでも恐るべき原爆を世に伝えてくれるのだろう」という日記でした。

 1945年、当時広島市に隣接して大野陸軍病院があり多数の被爆者が収容されていました。同年8月、原爆被爆者調査と早急なる対策樹立の為に研究員派遣の要請を受けた京都大学は、直ちに医学部の教授陣を中心とし、理学部、物理学者を加えた研究班を組織し、9月3日より同病院に本拠を置き、診療研究を開始しました。

 所が同年9月17日、室戸台風や伊勢湾台風と同規模の枕崎台風がここを襲い、同夜発生した土石流により、一瞬にして大野陸軍病院は壊滅しました。同病院に入院中の被爆者や職員を含めた156名の生命が奪われ、この中には京大真下教授(内科学)、杉山教授(病理学)以下研究班員11名の殉職者が含まれていました。

 1970年9月この11名の業績を偲びその冥福を祈る為、大野町に「京大原爆災害調査班遭難記念碑」が建立され、毎年9月17日前後に、碑の前に於いて京都大学及び広島芝蘭会支部主催で追悼会を行っています。この碑の最初にある真下俊一教授のご子息、真下芳夫氏は高校時代、小生と同級でした。下はこの碑の写真と、広島記念公園で撮影した夜景です。


                                        栗原 眞純
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