正門から

         フォトエッセイ 残像の記録 16-2   鴨 沂 高 校





































 今夏、小生が通っていた1935年完成(京都新聞による)の鴨沂高校校舎が老朽化による全面建て替えのため取り壊されることとなりました。鴨沂高校の元は1872年、女性の地位向上を目的に、東京と京都に本邦最初に作られた女学校です。鴨沂高校ホームページによると1923年、京都府立京都第一高等女学校(府一)と改称され、1948年、男女共学の京都府立鴨沂高等学校となりました。

 1950年から28年間続いた共産党の蜷川虎三知事による学区制(住所により通える高校が決まる)が敷かれるまでは、全国区の名門校として京大入学者数日本一になったこともありました。

 鴨沂高校に関係した人物を見ると、新島八重は創立時に教鞭をとったそうです。府一には森光子、山本富士子なども在校しました。そうそう長寿の研究と脳卒中ラットを創ったことで知られる京大名誉教授の家森幸男君は、加茂さくら、団玲子と共に小生と同学年でした。彼は毎月1回あった模擬試験で必ずトップに名前が出ていました。

 上にスライド写真を置きました。矢印クリックで次の写真が見られます。画像にカーソルを置くと数秒間、簡単な説明が見られます。歴史を感じさせる正門、初期のモダニズム建築である校舎、ヘレンケラーも講演した講堂、蔵書6万冊もある図書館、和服の女性でも歩きやすい段差の低い木製階段は古くてすり減っています、日本最初の温水プール、憩いの場ウイーンの森、和室、北運動場などを思い出して下さい。九条家から移設され、明治天皇もくぐられた正門は校舎改築後も残して欲しいですね。

 ヘレンケラーはこの講堂で「凄いのは私ではなく私を育ててくれたサリバン女史である」と話し、サリバン女史が死の直前に遺した日本へ行くようにと言う言葉を守って来日し、岩橋武夫や中村久子と会いました。ヘレンケラーやサリバンについては皆様よくご存じでしょうからこの中村久子について書かれたWikiを見られることをお薦めします。   八期卒業生 栗原 眞純

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